
物価高という重たい時代の空気でも「らーめん五百円」を守り抜いた矜持!

三月下旬の荻窪駅南口。春の入口に差しかかった街は、どこか空気がやわらいでいるのに、財布の中だけは妙に寒い。そんな感覚が、今あります。ラーメン一杯食べるというささやかな幸福にも、以前より少しだけ覚悟が要る時代。荻窪南口仲通り商店街のアーチをくぐりながら、私はそんなことをぼんやり考えつつ、「らーめん高尾」へ向かいます。

さて価格改定。ついにこの店もそうかぁ・・・でもそれは、どう見ても仕方がない以上だ!。そんな思いで、新たな価格表を見つめる。そして、しみじみ唸りました。瓶ビールは五百五十円から六百円へ。うん、それは致し方ない。むしろ今の時代に六百円で踏みとどまってくださっていることに、先に感謝したくなります。トッピング系や具材入りの麺も少しだけ改定。これも当然。しかし、その中でデフォルトの「らーめん」が、まさかの五百円据え置き。ここで私は、完全に心を持っていかれました。これは単なる値付けではありません。ほとんど意思表示です。宣言です。矜持です。

そして、価格改定と同時に、早々と「冷し中華」まで解禁している!。季節の進み方に合わせる俊敏さも、ちゃんとある。本来なら、こういうタイミングでは“今年の初冷し”へ流れるのが人情でしょう。しかし今日は、それをしませんでした。いや、できませんでした。五百円のらーめんを守り抜いた、その心意気を真っ先に讃えるならば、やはり頼むべきはデフォルトの「らーめん」です。そんなわけで本日は、らーめん、メンマ皿、まかないチャーシュー皿、そしてサッポロ赤星二本。これで行きます。荻窪の午後は、今日も実に正しい始まり方をしてくれました。
<サッポロ赤星> 少し値上がりしてもなお納得しかない!昼の幸福を静かに起動させる主電源の赤星健在!




気持ちを整え、最初に迎えるべきはやはり赤星。らーめん高尾における赤星は、ただの酒ではありません。これから始まる一連の幸福を、ゆっくりと起動させるための主電源。冷えた瓶のラベルに大きく掲げられた赤い星。その顔つきには、妙な派手さがありません。むしろ無骨で、実直で、何十年も同じ位置に立ち続けてきた職人のような風格がある。高尾の空気には、やはりこのビールがよく似合います。






グラスに注げば、淡い金色の液体が静かに立ち上がり、泡がきめ細かく盛り上がる。ひと口含めば、最初に来るのはしっかりした苦味です。しかし、その苦味は乱暴ではなく、すぐ後ろから麦芽の丸い甘みが追いかけてきて、喉の奥でほどよくまとまる。いわゆる“わかりやすい華やかさ”ではなく、“じわじわ良さが染みる骨太さ”。これがいい。何本飲んでも、妙に気取らない。なのに、一本目からちゃんと特別感がある。昼酒という少しだけ背徳的な行為を、正々堂々たる儀式へ変えてくれる飲み物!。






そして高尾の赤星の素晴らしいところは、単独で完結しないことです。この一本は、必ず次の何かを待っている。メンマ皿を待っている。まかないチャーシュー皿を待っている。最後には、湯気を立てるらーめん本体を待っている。

つまりこれは、前奏でもあり、伴奏でもあり、ときに主旋律でもある。だから一本目は喉の渇きをほどくため、二本目は小皿と麺のためにゆっくり進めるのが正解です。価格改定後の六百円という数字を前にしても、私の感想はただ一つでした。ええ、わかります。むしろこれでお願いします、と。

<メンマ皿> 気取らぬ短冊メンマ!軽やかにしかも確実にビールを進ませる名脇役!辣油垂らす!

やがてやって来るメンマ皿が、また実に良い!。近年のラーメン界で、太く、大きく、“私は特別です”と叫ぶような材木系メンマも珍しくありません。しかし高尾のそれは、それ。見た目は実に素朴。親しみ深い短冊タイプ。いわば、昔から知っている顔です。しかし、その“普通っぽさ”こそが、この店では武器になっています。


箸でつまむと、まず妙にほっとします。過剰な照りもなければ、過剰な濃さもない。口に運ぶと、あっさりした味付けの奥から、発酵由来のほのかな香りと竹の子らしい滋味がじんわり広がる。軽いのです。実に軽い。しかし、ただ薄いわけではない。ちゃんとビールの苦味を受け止め、次の一口を呼び込むだけの味の芯がある。この“強く押さないのに進んでしまう”感じが、高尾のメンマ皿の怖いところです!。


<まかないチャーシュー皿> 端肉ゆえの濃さ!香ばしさ!荒々しい旨さが赤星二本を危険な速度で進ませる!

そして、今日の昼酒をさらに危険なものにするのが、まかないチャーシュー皿です。これが実に、罪深い。見た目は決して上品ではありません。整った一枚肉ではなく、端っこや崩れた部分が集まった、いわば“裏方の集合体”です。しかし食の世界では、往々にして裏方のほうが旨い。端には味が溜まり、崩れにはタレが入り、切れ端には密度が宿る。高尾のまかないチャーシュー皿は、その真理を静かに証明してきます。


箸でつまみ上げると、肉片にはしっかりとタレが染みていて、表面には香ばしさが残っています。噛むと、脂の甘みと赤身の旨みが同時にほどけ、そこへ醤油ダレの濃さが乗る。整ったチャーシューの“きれいなおいしさ”とは違う、ちょっとラフで、ちょっと乱暴で、でも抗えない旨さです。これが赤星に合わないわけがありません。一切れで一口、一切れでまた一口。二本目の進行速度が、こちらの理性を無視して上がっていきます。


この皿の魅力は、らーめん屋の小皿でありながら、きちんと酒場の迫力を持っていることです。それでいて酒場ほど荒くない。家庭的な安心感と、厨房の技術がちょうど真ん中で握手している。だから食べていて妙に心がほどけるのです。なんでもない昼が、少しだけ特別な休日のように感じられる。まかないチャーシュー皿という名前には、どこか裏メニューめいた親しみがありますが、実際にはほとんど主役級です。今日もまた、私はこの皿にしてやられました。


<全体> 着丼した一杯の静かな美しさ!ワンコインとは思えぬ整い方!改めて凄みを思い知る!

いよいよ主役の着丼。目の前に置かれた瞬間、私は心の中で小さく拍手をし来気分。ああ、いい顔。実にいい顔をしております。どんぶりの中には、澄んだ醤油色の清湯。その表面には細かな油の粒がきらきらと浮かび、茶褐色の蕎麦ライクな麺がその下に折り重なっている。具は過剰ではありません。短冊メンマ、ネギ、豚バラ煮豚系のチャーシュー、そしてその上にちょこんと乗るナルト。たったこれだけ。されど、これで完璧!。

派手なトッピングで視線を奪うのではなく、全体の均衡で心を掴む一杯。これが、実に高尾らしい。何かを盛り込みすぎていないからこそ、一つ一つの意味がちゃんと立つのです。透明感のある出汁、麺の色、ナルトの桃色、チャーシューの薄茶、メンマの柔らかな褐色。色彩まで含めて、静かなノスタルジーが完成している。昭和っぽい、と一言で片づけるには惜しい。もっと繊細に“東京ノスタルジック拉麺の現在進行形”と呼びたくなる景色じゃないか!。

そしてもう一度、価格を思う。これが五百円。ワンコイン。たぶん今の時代、この事実だけでひとつの記事が書ける。しかし高尾の真価は、単に安いことではありません。安いのに寂しくない。安いのに雑ではない。安いのに、ちゃんと嬉しい。そのことです。高尾のらーめんは、数字以上に、食べ手の心をきちんと満たす設計になっている。着丼した瞬間、そのことがはっきり伝わってきまた!。

<出汁> 野菜、昆布、乾物、豚の優しい重なりに、ほのかな生姜が涼やかな輪郭を添える滋味!

まずはひと口。ああ、しみじみ旨いです。派手なインパクトではなく、じわりと身体の内側へ入ってくるタイプの旨さ。野菜の丸い甘み、昆布や乾物の静かな旨み、そして豚の煮出しが持つふくよかな下支え。そのすべてが、濃すぎず薄すぎず、まことに穏当な醤油味のなかで見事にまとまっています。どれか一つが前へ出て「私が主役です」と騒ぐのではなく、全員が控えめに役目を果たしながら、全体として深い。こういう清湯は、簡単そうに見えて、実はとても難しい。

さらに嬉しいのが、生姜の気配です。生姜ラーメンのように堂々と前面へ出るわけではありません。あくまで後ろのほうで、ふっと鼻に抜ける程度。しかしこの“ふっと”が実に効いている。醤油の輪郭をきゅっと締め、後味に小さな清涼感を残してくれるのです。だから懐かしいのに重たくない。やさしいのに退屈しない。スープをもう一口、もう一口と飲み進めたくなる理由は、このさりげない生姜の働きにもあるのでしょう。


この出汁には“日常に寄り添う強さ”がある?。豪華さで圧倒するのではなく、何度でも帰ってこられる味として成立している。毎日食べても嫌にならなそうで、でも久しぶりに飲むと、やっぱり感動する。そういう味は、案外少ないのです。高尾の清湯は、派手な個性よりも、積み重ねの信頼で勝負している。その静かな強さに、今日もまた深く頷かされましたわー!。

<麺> 茶褐色の蕎麦ライク麺!出汁吸って尚己を失わず!噛むほどに旨みを滲ませる真骨頂!

そして麺。見た目からして、もう高尾です。少し茶褐色を帯びた、蕎麦を思わせる独特の風貌。昨今の艶やかで均質な中華麺とは違い、どこか“粉の気配”をしっかり宿している。啜る前から、ああ、この麺はきっと噛んで楽しいだろうな、という予感を抱かせます。

実際に啜れば、その予感は裏切られません。口当たりは過剰につるつるではなく、ほどよいざらり感を残し、奥歯で受け止めると、麺そのものの風味がじんわりと滲みます。これが実にいい。スープの乗りはよいのに、麺自身の輪郭は最後まで崩れない。出汁を吸っても“ただの出汁色の紐”にならないのです。ちゃんと麺の顔を保ちながら、なおかつスープとも一体化していく。この両立が見事です。

この麺を食べるたびに、“啜る”だけではなく“噛む”という行為の幸福を思い出します。奥歯で軽く潰した瞬間に、小麦の風味と出汁の旨みが一緒に開いて、口の中で小さく完成する。派手なもっちり感ではない。艶やかな官能でもない。もっと質実で、もっと誠実な旨さです。高尾の麺は、ラーメンにおける“質実剛健”という言葉を、妙においしく具体化した存在なのだと思います。

<ナルト&チャーシュー> 江ぐち血脈を感じさせる控えめな意匠!全体に“ただいま感”と懐かしさを静かに添える!

具材の中で、まずどうしても目が行くのがナルトです。白地に桃色の渦巻き。その少し呑気な顔つきが、丼の空気を一気にやわらかくしてくれる。最近は、意識高めの一杯ほどナルトを置いてこない傾向がありますが、高尾は違う。ちゃんと乗っている。そして、ちゃんと似合っている。これだけで、心のどこかが「帰ってきた」と感じるのです。

その下に寄り添うチャーシューもまた、実に良い。豚バラ肉の煮豚系スライスが、ハーフカット気味に静かに収まり、その上にナルトが乗る景色には、どこか江ぐち譲りの気配が漂います。肉は厚すぎず、脂も過剰ではなく、噛めばしっとりとほどける。最近流行の“肉で殴ってくる”タイプではありません。むしろ、清湯と麺の世界観を乱さぬよう、ちゃんと脇へ回りながら、しかし確実に作品全体の格を上げる名優です。


ナルトとチャーシューを一緒に頬張ると、不思議な安心感が広がります。休日の昼、町の中華そば屋、湯気、木のカウンター、テレビの音、瓶ビール。そういった記憶の断片が、ふっと胸の奥に浮かんでくる。しかし高尾のすごいところは、それが単なる懐古に終わらないことです。昔っぽいのに、古びていない。続いていることそのものが価値になっている。ナルトとチャーシューは、そんな高尾の“現在形のノスタルジー”を象徴する具材なのだと思います。

<メンマ> 出汁を吸ってさらに親しみ深さを増す!後半の一杯をじんわり底上げる!

皿で楽しんだメンマとは別に、丼の中のメンマにもまた、ちゃんと役割があります。短冊タイプの親しみやすい姿はそのままに、今度は清湯を吸って、さらに丸く、さらに旨くなってゆく。皿では軽やかな酒肴だったものが、丼では一杯の流れを整える具材へと変わる。この変化が実に面白いのです。

食感はやはり穏やかで、強く主張しません。けれど噛むと、繊維のほどよい抵抗と、出汁を吸ったやわらかな旨みがじわっと広がる。だから箸が当たるたび、地味に嬉しい。ラーメンという食べ物は、ときどきこういう“地味に嬉しい”の積み重ねで完成度が決まるものですが、高尾のメンマはまさにその代表選手でしょう。

しかもこのメンマ、丼全体のノスタルジーを下支えしています。極太で異彩を放つわけでもなく、スパイスで奇をてらうわけでもない。ただ、昔からこうだったよね、という顔をしながら、実はちゃんと今の一杯を支えている。この“何でもない顔をした実力者”ぶりがたまりません。やはり高尾は、派手さより整合性で勝つ店です!。
総じまして・・・「安いからすごいのではなく安いままでここまで整えているからこそ最高に凄い!高尾の底力に敬意!」

価格改定直後という、客の視線も店側の緊張感もほんの少し高まりそうなタイミングで訪れて、むしろ私はこの店の芯の強さをいっそう感じました。瓶ビールは少し上がった。それは当然です。トッピング入りの麺も少し動いた。それも当然です。しかし、そのなかでデフォルトの「らーめん五百円」を守り抜いている。そして守っただけでなく、味も空気も小皿の幸福感も、何ひとつ痩せていない。ここが凄いのです。
今の時代、安さを語ることは、時に店への甘えになってしまいます。しかし高尾の場合は違う。五百円を維持するという事実そのものが、店の意思であり、表現になっている。だからこちらも、その一杯をただ“安い安い”と消費してはいけない気がしてくるのです。ちゃんと味わい、ちゃんと敬意を払って、ちゃんと旨いと思う。そのすべて込みで、この一杯は成立している。今回もまた、荻窪の名店は静かにそう教えてくれましたー。
「物価高の時代に、価格ではなく矜持で客を唸らせる店のらーめん」であります。五百円据え置きというニュース性だけでも十分すごいのに、その内実がしっかり旨く、赤星も、小皿も、丼も、それぞれがきちんと高尾の文法でつながっている。だから食後には、単なる満腹感ではなく、“ああ、いい店で過ごしたなあ”という静かな充足が残るのです。安いから通うのではなく、通いたくなる店が、たまたま安さまで守っている。その順序の正しさに、今回も深く感じ入りました。激しくオススメ!旨し!なので・・・とっとと詠って、いつものように締めたいと思います!。

お粗末!と言うことで家族にも感謝しながら合掌!!今日も本当にごちそうさまでした!



