ラーメン食べて詠います

ご訪問いただきありがとうございます。仕事の合間や、休日余暇を利用してラーメン探訪をつづけております。ラーメン食べて感じる、小さな喜びやストレス解放を、最後に詠って締めくくりますー。

【今週のラーメン5928】中華そば みたか(東京・三鷹)チャシューメン + もやしピーマン竹の子皿 + サッポロ赤星 〜琥珀の清湯!長閑なチャシュー重なりナルトが昭和の華やぎを添える一杯の全景!

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午後休暇の軽やかさ!春の光が満ちる三鷹駅南口!地下一階の昭和へと静かに潜ってゆく!

 
 午後休暇という言葉には、いつだって少しだけ甘い響きがあります。丸一日の休みほど大げさではなく、しかし定時後の自由よりははるかに濃密で、日常のネジを一本だけ抜いてもらったような、あの独特の解放感です。
 

 
 目指す先は、別の時間が流れている場所。あの青い「地下飲食店街」の看板を視界に捉えた瞬間、心の中の何かがすっと切り替わります。現代的な街の表面を一枚めくり、階段を数段降りるだけで、急に世界の温度が変わる。あの感覚は、何度味わってもいいものです。まるで三鷹駅南口の真下に、時間の折り目がひっそりと保存されているかのようで、私はその折り目へ、今日もまた吸い寄せられていきました。
 

 
 地下へ降りる途中、壁面の看板に「中華そば みたか」の文字が見えてきます。これがもう、いいのです。派手ではない。階段を下り切った先には、どこか雑多で、どこか親密で、どこか人懐こい風景がある。その予感だけで、午後休暇の価値はぐっと跳ね上がります。
 

 
 
 

<サッポロ赤星> 昼下がりの喉と気分を一気に起動させる!冷たくも骨太な一杯目の歓喜!

 
 まずお願いするのは、もちろんサッポロ赤星。この店における最初の一手は、もはや儀式のようなもの。運ばれてきた赤星は、相変わらず美しい。赤い星のラベルには無駄な媚びがなく、瓶の茶色には年季と誠実さが宿っています。添えられたグラスには細かな泡が立ち、表面には結露がきらりと光る。これだけで、午後休暇は単なる“半休”から、ちゃんとした“祝祭”へと昇格します。
 

 
 トクトクと注ぎ、一口。ああ、助かった、と思いました。うまい、でも正しいのですが、その前にまず、助かった、なのです。働いていた頭がすっとほどけ、喉を通った冷たさが胸の内側にまで届いて、ようやく自分が今日ここに来た意味が身体全体に伝わってくる。熱処理ビール特有の図太い苦味、その奥から遅れてやってくる麦芽の穏やかな甘み、そして最後は驚くほどきれいに切れてゆく後味。派手に香るクラフトビールの魅力とはまた別の、黙って頼れる年長者のような安心感が、この赤星にはあります。
 

 
 何より、この店の空間に赤星がよく似合います。ステンレスのカウンター、少し年季の入った店内、ガラス越しに見える貼り紙やポスターの賑わい、そして忙しくも穏やかな店のリズム。そこへ赤星の瓶が置かれると、風景が急に完成するのです。ラーメン屋でありながら、ちょっとした大衆酒場でもある。いや、ラーメン屋と大衆酒場の境目が、ここでは最初から曖昧なのかもしれません。だからこそ、赤星は単なる飲み物ではなく、店の文法を理解するための最初の教科書のようにも思えます。
 

 
 
 

<もやしピーマン竹の子皿> 香ばしさ・食感・タレの刺激!これら三位一体となり赤星を加速度的に進ませる名脇役!

 
 ラーメンの前に置かれる一皿として、これほど油断ならない存在もそうはありません。「もやしピーマン竹の子皿」と聞くと、文字だけならどこか素朴で、ささやかな副菜のように思えます。しかし実物は、そんなおとなしいものではないのです。もやしの白、ピーマンの緑、竹の子の鈍い艶。それらが中華鍋で余計な水気を飛ばされ、香ばしさをまとって皿に現れた瞬間、これは“野菜炒め風の一品”ではなく、“赤星に対する攻めの一手”だと理解させられます。
 

 
 もやしはしゃきっとしているのに、ただ軽いだけではなく、噛むと甘みがじわりと出る。ピーマンは青臭さが立ちすぎず、むしろ輪郭のある苦みとして全体を締める。竹の子は、丼の中のメンマとはまた違った顔つきで、ざく、こり、という小気味よい歯触りを添えてきます。そこへ醤油ダレの旨み、辣油の刺激、さらににんにくの気配が差し込めば、もう箸は止まりません。これは前菜ではなく、開戦の合図です。しかも戦う相手は外ではなく、自分の食欲そのものなのですから、始末が悪い。
 

 

 
 

<全体> 琥珀の清湯!長閑なチャシュー重なりナルトが昭和の華やぎを添える一杯の全景!

 
 いよいよ着丼。目の前に置かれた瞬間、思わず「おお」と小さく声が漏れました。こういう丼は、過剰な演出がないからこそ、かえって強い。透明感を残した琥珀色のスープ。その表面にそっと浮かぶ油。丼いっぱいに広がる刻み葱。中央には、やや照れたようにナルトがひとつ。そして何より、主役たるチャシューが幾枚も重なって、丼の景色に静かな迫力を与えています。
 

 
 このチャシューメンが見せてくる美しさは、もっと根本的なもの。必要なものが、必要なだけ、実に正しく置かれている。その端正さが、見た目の段階ですでに旨さを予感させるのです。いわば、これは“説明しすぎない自信”の盛り付けです。大声を出さずとも場を制する人のように、この丼は静かに強い。
 

 
 しかも、その強さには妙な人懐こさがある。古典的な東京中華そばの顔つきでありながら、堅苦しさはない。むしろ、「ほら、こういうのでいいんでしょう?」ではなく、「こういうのが、結局いちばん沁みるんですよ」と、優しく言い当てられてしまったような感覚です。午後休暇を使ってここへ来た判断は、着丼の時点で完全に正しかったと、毎回訪れる度に教えらる思いです。
 

 
 
 

<出汁> 豚の旨みと野菜のやさしさが醤油の輪郭が溶け合う!忘れがたい滋味へと見事な着地!

 
 まずはレンゲで一口。ああ、やっぱり、と思いました。派手な魚介の押し出しでもなければ、鶏の芳醇さをこれでもかと主張するタイプでもない。けれど、このスープには、他の何かになろうとしない強さがあります。醤油はあくまで前に立ちつつ、その奥で豚の旨みが柔らかく支え、さらに野菜由来と思しき甘みが、全体に穏やかな丸みを与えている。尖らないのにぼやけない。やさしいのに弱くない。そういう、じつに得難いバランスです。
 

 
 スープの色は澄んでいても、味まで細いわけではありません。むしろ、飲み進めるほどに厚みが見えてくる不思議なタイプです。最初のひと口では「落ち着く」と感じ、次のひと口では「やっぱり深い」となり、その次には「これは危険だ、飲みすぎる」と気づく。つまり、静かな顔をして、実のところかなり中毒性があるのです。葱の爽やかな香りがところどころに差し込んでくるのもよく、醤油の輪郭を必要以上に重たくしません。
 

 
 
 

<麺> 蕎麦めいた風情!出汁を吸いながら後半に向けてじわりじわりと真価を増してゆく!

 
 みたかの麺は、やはり独特です。一見して、一般的なつるつるした中華麺とは違う雰囲気がある。どこか素朴で、どこか無骨で、どこか日本蕎麦に通じるような陰影をまとっているのです。実際に啜ってみると、その印象はいっそう強まります。口当たりは軽やかでありながら、表面にはわずかなざらつきがあり、噛めば小麦の気配がじんわりと返ってくる。過度にもちもちへ寄せるでもなく、やわらかさに逃げるでもない。まさに、このスープのための麺です。
 

 
 面白いのは、食べ始めから終盤にかけての変化です。最初は麺そのものの風合いが前に出てきますが、スープを含み始める中盤以降、急に一体感が増してくる。いわば、単独で個性を見せつけるのではなく、丼全体の中で完成してゆく麺なのです。こういう麺に出会うと、ラーメンとは単にスープと麺の足し算ではないのだなと、改めて思わされます。双方が互いを侵食し、最後にはどちらが主役か分からなくなる。その曖昧な幸福こそが、ラーメンの醍醐味なのかもしれません。
 

 
 
 

<チャシュー> 主役の名にふさわしい量感を備えながら脂の甘みと素朴な旨みで丼全体を品よく押し上げる!

 
 チャシューメンの魅力は、単に肉が多いことではありません。大事なのは、その“多さの質”です。この日のチャシューは、白みを帯びた脂身と赤身がやわらかく同居し、幾枚も重なりながら、決して威圧的ではありません。いわゆる“肉の壁”として迫ってくるのではなく、“肉の布団”のようにスープの上にたおやかに広がっている。この見え方が、なんともいいのです。丼に贅沢感は生まれるのに、下品さが出ない。ここが実にみたからしい。
 

 
 ひと口齧ると、まず脂の甘みがじわりと広がります。けれど、脂っこくも重たくもない。むしろ、熱を受けた脂がスープの醤油感と結びついて、全体を少しまろやかにしていく印象です。赤身の部分にはほどよい繊維感が残り、噛むほどに肉の素朴な旨みが出る。その自然さがいい。最近流行の低温調理チャーシューのような“映える精密さ”ではなく、もっと生活に近い、ちゃんとご飯や酒やスープと仲良くできる肉です。
 

 
 そして、何枚もあるからこそ、食べ方の自由が生まれます。最初にそのまま齧るもよし。麺を包むもよし。スープに沈めて温度をなじませるもよし。七味を少し振って輪郭を変えるもよし。チャシューメンとは、肉が増えたラーメンではなく、食べる側の采配が増えるラーメンなのだと、この丼は教えてくれます。
 

 
 
 

<メンマ> 片隅で静かに佇みながら噛むたびに素朴な旨みと落ち着きを運ぶ、縁の下の重要戦力!

 
 チャシューや葱やスープに意識を持っていかれがちな中で、メンマはいつも少し損な役回りです。しかし、こういう一杯ほど、メンマの存在が効いてきます。見た目は素朴。色味も控えめ。ところが、箸で取ってみると、これがしっかりしている。過剰に味を入れすぎておらず、竹の子本来の繊維と香りがほどよく残っていて、噛むとじんわりと旨い。派手さこそありませんが、丼全体のリズムを整える役割をきっちり果たしているのです。
 
 
 しかも今日は、もやしピーマン竹の子皿を先にいただいているので、“竹の子”が二つの形で現れてくるのが面白い。皿の上では香ばしさと刺激をまとった攻めの竹の子であり、丼の中では静けさと安定感を担う守りのメンマである。同じ素材が、ここまで表情を変えてくると、つい嬉しくなります。こういう小さな発見があるから、同じ店に通うことはやめられないのです。
 

 
 
 

<味変化> 七味唐辛子!後半の伸びしろをもう一段引き出す!控えめながら効果的な仕上げ!

 
 
 後半、頃合いを見て七味唐辛子を少し。ここで大事なのは、あくまで“少し”であることです。この一杯はもともとの設計が実に繊細で、やたらと何かを足しすぎると、せっかくの均衡が崩れてしまう。だから、ほんのひと振り、ふた振り。その程度で十分です。すると、醤油の輪郭がふっと立ち、チャシューの脂に軽い刺激が差し込み、葱の香りに微かな熱が重なってくる。穏やかな水面に、小さな波紋がいくつも生まれるような変化です。
 

 
 七味のいいところは、単純に辛くするのではなく、香りの層を一段増やしてくれるところにあります。唐辛子だけでなく、山椒や陳皮を思わせるような和のニュアンスが、どこか昔ながらの中華そばの文脈にもよく合う。モダンな味変アイテムではなく、ちゃんとこの丼の時間感覚に寄り添っているのです。ここで急に別物へ変えてしまわない。その節度もまた、みたからしい。
 

 
 
 

総じまして・・・「地上の春光と地下の昭和!赤星と名脇役!そして滋味深いチャシューメン!それらが一本の線でつなる幸福!」

 この日の「中華そば みたか」は、単にうまいチャシューメンを食べた、というだけでは終わりませんでした。三鷹駅南口の明るい午後から始まり、地下へ降り、赤星で喉を開き、もやしピーマン竹の子皿で食欲に火を入れ、そしてチャシューメンでしっかり着地する。この一連の流れそのものが、ひとつの完成された体験になっていたのです。どこか一つだけが飛び抜けているのではなく、全部がつながっている。その連続性が、この店の恐ろしいところであり、また偉大なところでもあります。
 何より、ここには“古いから良い”だけでは済まない、生きた力があります。地下の空気、店の表情、赤星の冷たさ、皿の香ばしさ、琥珀色の出汁、独特の麺、たっぷりのチャシュー。どれも昭和の残響をまとってはいるのですが、決して博物館の展示物ではありません。ちゃんと2026年の午後に、今の自分の胃袋と気分を満たしてくれる。だからこそ、この店は懐古趣味ではなく、現役の幸福装置として機能しているのだと思います。派手ではないけれど確かな旨さに身を委ねたい日。そんな日の答えとして、この店はあまりにも強い。地上の新しさと、地下の揺るがなさ。その両方を抱え込んだ三鷹という街の奥行きまで含めて、実に見事な一杯でありました。激しくオススメ!旨し!なので・・・とっとと詠って、いつものように締めたいと思います!
 
 

 
 
 お粗末!と言うことで家族にも感謝しながら合掌!!今日も本当にごちそうさまでした!

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